【字の確認】
・みほしさん(人の名前)
昭和43年11月21日 朝の御理解
末永静行(№43-183)
御理解第11節
「神は天地の守りじゃからはなれることは出来ぬぞと。」
神は天地の守りじゃからはなれる事はできぬと、一番天地は離れる事はできぬと仰っるのですね。
御理解九十三節に「氏子は神の守りをしている者を神と心得て参詣する、守りなどするなら参詣した氏子は今日は留守じゃと言おうが、神の前は開けておく事は出来ぬ、万事に行き届いた信心をせよ、常平生心に裃つけておれ、人には裃があるが、神には裃がない、人間は皆同じように、神の氏子じゃによって見下したり汚がったりしてはならぬぞ」とあります、これは、まあ、皆さんがいつも頂かれる事ですから、もうどちらにしてもお分かりだと思うんですけれども、今日の焦点をね、この守りじゃからと仰る、神は天地の守りじゃから、または、氏子は神の守りをしておる者をと、取次者を神の守りと言うておられます、私はこんところを今日は一つ皆さん頂いて頂きたい。守りし守りされるという事。
御理解十一節は結局お道の信心の、いわゆる、金光教の神観ですね、神を観る、どう言う神様をどう言う性質の神様を金光教では拝んでおるかと言われた時に、神は天地の守りじゃから離れることは出来ぬぞと仰せられるような神なんですね。だから、信心の神観、これは意味においてはたくさんありますね、神に合おうと思えば庭の口に外へ出てみよと、空が神、下が神とかと言うようなですね、神が社に入ってはこの世は闇になるとかと言うような御理解がございます。
だから、ここでは、いわゆる、この神観ですね、私共が頂いておる金光教の信者が信奉しておる、このどげんなん神様ば拝みよるのと、よういう人があります、金光教ではどげなん神様なん、それは天地の親神様たいというただけじゃ分からん、ね、その天地を守りしてくださっておる神様なのだ、ね、これは、いわゆる、神観なんですね、だから、そう言う説明じゃなくて、神は天地の守りじゃからとこう仰せられるでしょう、ね、天地を守りしてござる、そすと、今度、御理解九十三節には氏子は神の守りをしている者をとこう仰っておられる、そすと守りしてござる神様も守りされなさなければならんなあという事が分かります、そこで私は思うんですけれどもね、最近私は特に思うんですけれど、この御理解の最後のところはもう十二、三節ぐらいは全部取次者に下さる御理解ですもんね、これもやっぱそうです、ところがですね、ここはもう先生達がいただかにゃならん御理解と言うのではね、私は合楽的な、合楽でおかげを受けてくれよと言うてござるような感じのおかげはね、頂かれないです。
これは、だから私はここに現在合楽におかげを頂いておる現在の全部の人はね、全部が取次者というような自覚に立たなければならんという事ですよね、それは皆さん例えば、あの、おかげを受けておる人を見て御覧なさい、なら、この辺でなら平田さんとかね、こんど正月みえた須田博士なんかと言うような方達はですね、先日みえたみほしさんなんかでもそうですよね、先生方が見えた時は、もう、先生よりも、まあ、言うならば、でけてござると言う感じですね言うなら、むしろ取次者が教えられるような信心を頂いておられるという事ですよね。
ですから、合楽に御神縁を頂いておる人達はですね、どうしてこう最後の、私はですね、こう毎日頂くんですから、神様、そこはいつも頂くところですけんと言う気持ちがするとですよ実際は、こう90節からこっちあたりのここを頂く、多いでしょうが、それはどういう事かと言う、皆さんをもう一人一人を取次者としての自覚とそのぐらいな信心が出来なければね金光様のご信心は頂かれんとです本当の信心は、あの、おかげはね、いわゆる、お徳を受けると言うのはね、やはり、信者でも、例えばもう先生を出来なさらん普通で言うね、いわゆる、信心が出来る人だから徳は受けられんです、いわば、人が人偏なら私は行人偏と言う生き方もし頂かなければ、おかげは受けられんです、本当のおかげは。お取次者にお取次ぎを願ってと、ね、願って、言うなら、私達も人並み以上のおかげを頂きたいと思うなら人並みの以上の修行を厭うてはならんという事です、ね、だからどうぞ皆さん、もう皆さん自信がね、神の守りをしておる者としての一つ思いで日にちの御理解を頂き直さないかんと、ね、そうですよ。
昨日でしたかね、例えば金光様の先生が自分の生活のために神の守りをしておるなら、もうそれは神を商法に使っておるのだといったように頂いたんですけど、なら信者だって同じ事です、ね、おかげを頂くためにお参りをしよるとならね、神様を商法に使うと同じ事です、神様の守りをしておるという、ね、それこそ、なら私はこの御理解十一節にですね、神は離れる事は出来ぬぞとこう仰っておられる、ね、神の守りをしておるいっときでも離れませんもんね、そうでしょうが、子供の守りをしとったっちゃ、なら守りをしておるもんがほけんごつしとるなら危なかよ、ね、どこに落ち込むやら、どこで衝突するやら分からん、だから、いっときでも油断が出来ん、目を離すことが出来ん、ね。
そこに神様がですね、離れる事が出来んぞと仰る、だから、ここはもう不利なものですねはなれない、られないというものですから、結局守りし守りされておると言うところに守りしておる者、守りされておる者がいつも密室な関係がここから生じてくる訳ですね、ね、そこで、九十三節ではその守りをしておる者に対する心掛けを下さっておるのですから、ここんところの信心が出来なければならんという事になる訳なんです、ね。
だからここは参詣する者が守りが留守なら神が留守だといったように言うとこう言うてござるが、だから、その、まあ、信心のない者がとここに頂かにゃいかんですね、信心のない者は、信心のある者も、ね、その見方が違うのです、あの人は信心をしござるから、はーあの人は信心しよるばってん、あげなん事が信心じゃろうかといわれるような事じゃいけん、いつも神様がそばにござるといったような実感の中にお互いが日にちのそれぞれの生活の現場でその神様を現していかなければいけん、そこに初めて、なるほど信心しよる者は違うなあと言うようなことにもなって来る。
神の守りを開けておくことは出来んぞとこう仰る、ね、神様のいつもそこに神様が現れてござる、仕事の上にも言うておる事にもしておる事にもそう言う在り方、いわゆる、行き届いた信心をせよとこう言うておられる、なら常平生に心に裃をつけておれとも仰っておられる、常平生に、言うならば紋付袴それに白足袋をはいたような心持で信心をせにゃいかん、ね、紋付は釜をつけたような気持ちで、そう言う気持ちにならにゃいかんです、作業服をきとっても、紋付袴をつけた気持ちでおらにゃいかんです、足元にはいつも足元を汚さんように、なら汚したらすぐ詫びたり、取り替えたりできるように白足袋はいた気持ちでおらにゃいけん。
神は裃がない、人間には皆同じように神の氏子じゃによって見下したり汚かったりしてはならんぞと仰るところの、ね、いよいよ実意丁寧神信心が身について行かなければいけない、とりわけ、参ってくる氏子に、を見下したり、ね、してはならんという事なるわけですが、いわゆる、人間を軽うみなと仰るように、ね、いわゆる、人間尊重と言うかね、あれは誰の言葉でしたでしょうかね、天を敬い人を愛すると言う言葉がありますね、幕末時代のなんか偉い人の言葉だっと思います。
天を敬い人を愛すると言う、これには私はもう一つ地を汚すなというものがともわなきゃ金光様のご信心にならないと思うんですね、天を敬うだけではいけない、人を愛するだけではいけない、それに地を汚さん、汚さない、ね、そこんところが出来ませんと天を本当に敬う事は出来ません、そこんところが出来んと本当に人を愛する事が出来ません、地を汚さないという事が今日ここに出ておりますような心掛けのことでございます、ね、行き届いた信心をせよ、ね、いわゆる、紋付袴裃をつけたような信心をして行かなければならない、自分自身が、自分自身の心を汚さない汚さないように心がけて行くところの信心、だから、人を見下したり、ね、汚かったりするはずがない、ね。
この地を汚さない、それは大地という事ではなくて自分自身という事だと思うんですね大地とは、自分の事、人は他の事、人と言うのは相対的なその人という事ですね、自分、人、それが私はでけて初めて天を本当の意味での敬う事ができる、ただの理想であって、天を敬い、人を愛するという事は理想なんです、その為に自分自身が出来なければ出来んという事である、自分自身が実れば実るほどかがむ稲穂のように、自分自身が謙虚にならなければ行けないという事、謙虚にならなければ天を本当の意味においての敬うことも人を本当の愛する事も出来ないということ。
ですから、本当に私共が神の守りをしておると言う自覚、いわゆる、金光様の信心を頂いておると言う自覚、金光様の信心を頂いておると言う自覚は神の守りをしておると言うぐらいな自覚にならなければと今日は私は言うておるわけですね。
合楽の信者全部が取次者の自覚に立たせて頂かなければならんと、そこで、ここに九十三節に出ておるような、いわば、心掛けと言うものがどうでも必要になってくる、裃つけた心持、常平生にそうです、人間をみんな神の氏子としての見方ができるという事はそのまま人を愛する事ができるという事、ね、ですから、勿論人を見下したり汚かったりは出来ません、ね、私達はその日常生活の中にそう言うようなおかげを頂いておるだろうかと、心掛けにですね。そう言う心掛けになって神を頂いておく、そう言う心掛けにならなければ神様のお守りは出来ない、ね。
守りをさせて頂きながら本当の守りをさせて頂きながらですよ、例えばここで本当の取次者がですね、自分の生活のための昨日の御理解ですね、昨日、自分の生活のための奉仕ではなくて、ね、本当に神様を守りしておると言う意味においての奉仕ですね、それが、出来るようになる時に分からせて頂くものはですね、自分は一生懸命真心一杯、全身全力を尽くして神の守りをしておるつもりであったが、神様が全身全霊をもって、まあ、全身全霊をもってと言うといいすぎかもしれませんけれども、自分が神様を守りしておると思いよったけれども、守りされておったのは自分であったと言うおかげの体験が生まれてくる、いわゆる、なるほど神がはなれる事は出来んぞと仰るが、もう私に着きっ切りで私を守りしておってくださった事に気付かせてもらう、ね、そこんところをお道ではあいよかよと言う、親に係り子に係りとも言うておられる、親の事は子が頼み、子の事は親が頼み、頼み合い致せと、両方が頼み頼まれる事になってくる、そこにお道の信心がハッキリしてくるわけですね。
そこで初めて神は天地の守りじゃから離れる事は出来んぞと言うような御理解がですね、なるほどこの神様は離れる事が出来なさらない神様だなあ、このようにして保護し、このようにして守っておってくださっておる神様だなと、しかも自分の先にたっていつも、例えて言うならおかげでも、こちらが願うてもいないのに神様は先回り先回りしておかげを下さる事の出来る働きを実感しますから、それを感じますから、いよいよ信心が有り難うなってくると違うでしょうか、そこんところが頂けて初めて神は天地の守りじゃから離れる事はできぬぞと仰る御理解がです、ね、ただ、これを神観、ね、金光教の信奉者はどう言う神様を拝んでおるかといわれる時に、ね、神は天地の守りじゃから離れることは出来ぬぞと仰るような性質の神様だと説明をしただけで分かるけれども、はぁーなるほど有り難いなぁーというものを分からせる事が出来んです、ね、私を守りしておってくださる、ならそのようにです、なら私共の願うこと以上のおかげを下さってある体験を頂いておって初めてです、本当にそう言う神様じゃろうのうと例えば聞いた者も初めてそこが分かると私は思うんです。
だから、信心をしなければ、神は離れる事は出来んぞと仰る、神様がいつも四六時中私共の上を御守護、お守り下さり、そして私共がおかげが頂きよいように、頂きよいようにと道明をしてくださることの、ことをですね、体験して行ってはじめて、ね、私はこの御理解が分かったという事になるのじゃなかろうかと、ね。
金光様のご信心を頂いておる、私共は天地の親神様を拝みよる、金光大神のお取次ぎによって天地の親神様を拝みよる、だからもう天地が金光教の神様と言う、これはもう誰でんはなれる事は出来んと仰るから、誰でもその神様をお世話になり、お恵みを受けなければ生きる事が出来んと漠然とした、いわば、説明ではなくてです、自分自身が、ね、本当に神様が離れる事が出来んと仰るほどしの離れてござらん私を守りしておってくださっておると言う、ね、ほどの体験をここに現して初めてこの御教えが生きてくる、その心掛けとして第九十三節を皆さんが今頂かなければいけない、ね、そして、神から守りされておるという事をいよいよ分からせて頂くために私共が神の守りをしておると言う実感、ね、合楽の信奉者全部が取次者としての自覚をもつぐらいな、いつも紋付袴をつけておるような、裃をつけておるような、白足袋をはいておるような心持でお互いの仕事を、日常の生活の現場において、ね、そう言う心掛けで行く所にどう言う事になるかと言うと、いわば、地を汚さないと言う信心になる、自分自身を怪我さない、自分自身を汚さない、ね。
そこにはです、物を軽う見たり、人を軽う見たりするような心が自ずと出来んようになってくる、ね、一切のものを押し頂く心が生まれてくる、ね、だから、いよいよ神様の守りを実感する事が出来るようになる、神様の働きをいよいよ身に感ずる事が出来るようになる、そこに、ね、天を敬い人を愛する事が出来るおかげを受けられるのである、ね。
最近、例話にその話がいつもでるんですけれどもね、この頃、テレビで見ました、あの、新霊手術のことです、ね、手でお腹を切られる、手、もう本当に生神様、生神様と言うよりも天地の親神様をそのまま、確かに神様がこの体を作ってくださった印に、もうとにかく腹を断ち切って跡形がつかんのですから、その癌を取り除いた、その時に( )、もう、子宮筋腫と言う病気の手術でございましたが、三分間しかかからん、あんなに広く、腹を断ち切ってとこうこうやって扱いなさるとちゃんと元にもどってしもうとる、もうただただ驚くばかりだけれども、天地の親神様のお働きをもってすれができるのだと、言うなら医者達が、いうなら、ただ、もう始めの間はマジックと思うておったけれども、実際これはもう現に目の前に見る事なもんですから、ね、( )の仕掛けもない事が分かって、ただ驚く以外にはないと、今の医学、現代の科学ではどうにも説明のしようがない、第一、あそこの子宮筋腫と言うものがそこにでけおるのですね、こう手をそこへ入れて、入れてもですね、その、動脈がある、そこを通っておるんですって、だから、これを切らなければそこへいかれないのにですね、その人の手はもうその動脈の手をくぐって、いわば、いっとるだろうというわけなんです、だから、それをちょっと破れて手を上げたらもう死ぬそうなんですね、動脈が血が出るから、それが、その動脈をきる事もなしにその向こうにあるそれをちぎって出してあるんですからね言うならば。
第一また驚くことは此の方がここで手術する時にですね、全然消毒もなんもされないこと、フィリピン人のいわば( )なもうほんなはだしの生活ばっかりといったような人達がゴロゴロ、まあ、来ておるわけですけれども、もう、それこそ、御神水というものをね、神様にお供えしてあるお水で手術をするところをこうふかよいだけである。
それで、なら、汚い足やら腹をあつこうといてからその手でたとえば腹の中に手を入れるとやけん、もうとにかく現代の例えば医学とか医者なんかでもう想像もつかないこと、もう絶対黴菌がそこに進入しないはずがないのです、けれどもそれはどういうことかと言うと、結局この人はね、もう黴菌といったような事を無視してしまっておると言うておりますね、無視しておるという事はもうないものだということなん、また、その話になりましたけれどもです、その私はそこんところからですね、その人がですね、黴菌を無視しておるところが素晴らしいと思う、ね、はぁーこげんなん事しよったら黴菌がつきゃせんじゃろうかと、それは、いわゆる、黴菌を、いわば、生かしておるわけです、ね、そう言う心が、いかに不安な心がおかげにならんという事が分かりますね、もう大変な難しい事、けれどもです、ね、今日の御理解を頂いて行きよるとですね、これが、段々分かって来る気が致します、ね。
神に守りされ、神を守りするということ、神様の守りをするという事はどういうことか、結局ね、すべてのそう言うようなことをですね、無視できる事はどういう事かと言うと、自分自身が空しゅうなるという事なんですよ、ね、自分が、言うなら死んでしまっておるような状態です、全然考えないだから、ね、無視するという事はね、無視するという事は自分が、自分自身が空しゅうなっておらなければ空しゅうはでけんのです、あぁ!無視はでけんのです、ね、それを少し具体的に言うとままよと言う心でしょうかね、そのちょっと手前の心、ままよとは死んでもままよの心、ままよとは死んでもままよのこと、死ぬまいと言う心が疲れると仰る、ね、死ぬまい死ぬまい、ね、死ぬまい死ぬまいと思う心ではなくて、死んでも良いと言う心、大変難しい事になったですね、けどその難しい事を今日は例えばこの九十三節と御理解第十一節からですね、もう誰でも、言うならば、分からせてもらえれる、そして誰でもすぐそれに取り組んで行じて行けれる事のでけれる今日は御理解を頂いとるわけですよ皆さん、もう大変な難しゅうこと、自分を空しゅうするという事。
私がいつも久富繁雄さんに言うんですよ、あんたは私のお守り係りのごと思うて私ば一生懸命お守りをして下さっとるばってん、ようと考えるとあんた私から守りされとると言うわけ、ね。
昨日は、もう本当になんて言うんでしょうかね、昨日、月次祭の晩に私は、あの、食堂で四、五人集まってからお茶を頂きよりました、ちょうど光雄さんが来ておりましたから光雄さんに、もうぼちぼちしゃぶ鍋の時期になったねというわけなん、しゃぶ鍋というのは、あの、肉を薄く切って、そして水だけをすぐ食べ方なんです、いよいよ、なったねと私は言うた、言うた後にですね、あいた、これはちょっと効きすぎたなあと私は思うたんです、親先生がしゃぶ鍋を食べようごたるいいござるように聞こえた感じがしたです、ですから、違うごつ明日、明後日当たりは違うごと、もうつゆやビンをもってくるやろうと思いよったんです、ところがもう、その通り、昨日、その時、帰りよりに高橋さんに親先生がしゃぶ鍋のこつば言いござったばいといわっしゃった、いうたごたるふうで、そんなら明日は菊栄会じゃけんなら肉をこうていこうかというわけで、親先生ご飯を食べんというてくださいとこういう、その事が私はもう昨日の朝から分かっとったわけです、ははーこれはしゃぶ鍋が頂けれるという事、そこで私は繁雄さん明日は早めに来なさいという事を嫁ごさんにことづけとった、ところがまあ嫁さんっち、奥さんにですね、ところがそれが通じとらん訳ですね、親先生が( )それけん、明日はその、ただ早うでてくるように、いわゆる、ご飯を食べて出てくるようにというておった、ところが向こうではですね、違うごと繁雄おっちゃま( )じゃろうからこれは、豚肉を食べると腹がへきなさるから、牛肉をこうてこうと言うててちゃんと牛肉をこうとるとです、ね、その豚肉と肉を次々と菊栄会の方達が集まってまいりましたからその全部の( )の人達がもう全部が頂けれるほどたくさん、だから昨日は菊栄会の方達全然知らないんです、これなんかはどう言う事になるでしょうかね、繁雄さんが私を一生懸命守りをしよるなさるばってん、守りされてござる事が感じられるでしょうがそこから、ね、いかにも守りしよるごとあるけれども、守りされござるとですよ、いかにも私が神様の守りをしておるようであっても私が神様から、いわば、間違いのないように、間違いのないようにと、いつも神様から、いわば、守りを受けておるわけです、ね、これは危ない所に行きよったら危ない危ないと言うていつも注意を受けておるほうはこちらなんです、守りをしておるようであっても、守りを受けておるのです、そうでしょうが、それを繁雄さんが昨日は少しばっかり頂き損なったわけです、少しばっかりずれたわけです、それでもやっぱりおかげを頂きましたけれどもです、ね。
例えばなら、なら、私は他の者にそげんなんことを言うはずがない、日頃守りされておるようであるけれども、一事が万事そうです、今朝でもそうでした、私が朝起きて白湯を一杯頂いた、夕べ、その、お神酒をたくさん頂いてのどが乾きよる、そして繁雄さん、あの、奉仕にきてくださった、だから、控えにサイダーを出しといてください言うからもって来て下さった、その一本も飲めんから半分頂いた、半分、繁雄さん、あんたが頂きなさい、自分もやっぱ夕べよけい頂いとるけんのどが乾いとるに違いはない、ね、守りし、守りされておる事が分かるでしょうが、言うならば私と同じ物が頂けれるという事なんです、そんなら守りするという事はどう言う事かと言うとですね、今私が、あの、無視するという事ね、これはどう言う事かと言うと、その時だけは自分と言うものを空しゅうしとかなければ守りはでけんのです、そうでしょう。ここで私が商売のために座っておるならば、自分が一杯ここにありますけれども、神様の前に、いわば、私が奉仕をしておる時には私自身という物を空しゅうしとかなければ神様の守りは出来とらんです、繁雄さんが私を守りしてくださる時には繁雄さん自身が無視されておんなさる、自分という物を空しゅう、今日はちょいととりあえず忙しいございますけん、今日はちょい御無礼しますけんというとったら私の守りはでけんのです、ね、忙しいことも夕べ眠ってないことも今日はこれをせなんならんばってんと思うても先生から言いつけられたことに対してはそれを行じて行かなければならない事が久富繁雄そのものをそこに空しゅうしておるわけです、無視しておるわけです、ね、そう言う断片的にでも自分というものを空しゅうさせて頂くと所からです、神を身近に感ずる事が出来る、神が離れる事が出来んと仰るが、なるほど、離れる事の出来なさらん神様だなという事が分かるわけです、ね。
私は今日は、いわば、御理解十一節ですね、神は天地の守りじゃからはなれる事は出来ぬぞといわれる御理解十一節と御理解九十三節、氏子は神の守りをしておる者を神と心得て参詣する、( )参詣した氏子は今日はお留守者と・・・。と仰る、神の守りをしておるという、ね、いわゆる、守して守りされておると言う関係においてどう言う結果が出るか、そう言う中に自分と言うもの空しゅうなって行くということ、またはここんところの心掛けですね、九十三節のところのここんとこの心掛けなんです、いわゆる裃つけたような心持という事、実れば実るほどかがんで行く、いわば、自分を怪我さない、地を怪我さない、ね、そう言う心掛けの中からです、私はここの御理解の真意と言うか、より分かってくれと言うておられる感じの、より分からせてもらうところをそこからわからせて頂く気が致します。
どうぞ皆さんがですね、神様を守りしておる、取次者としての自覚、そのぐらいな私はおかげを頂かなければです、本当の徳を受けられないことをです、なら今、私が申しました、ならここ平田さんあたりの場合を申しましたが、本当の、本当の、いわば、偉大なとまで思われるようなおかげはね、自分が空しゅうなり、そして神様の御用に、ならもう前には進んでも後ろには退かんといったような信心、そういう精神がです、ね、神様を十分ここに働いてくださることのできれる場を作ることになる、ただ、お取次を頂いてお願いをしておかげを頂いておくと言うようなことでは本当なお徳は受けられレナ衣と言うようなことを申しましたですね。
大変か、御理解二節に渡ってのことでございましたから、特にここんところ守りじゃから、または守りをしておるものとこう、守りと言う言葉をつかっておられるそこに焦点をおいて今日の御理解を聞いていただいたんですね。
どうぞ一つ本当に神様を守りしておる気持ちで信心をしてごらんなさい、自分が守りされておることにビックリするほど気が付きます、そこに本当のおかげが受けられるのではないでしょうか、どうぞ。